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2ch発!24時間放送を目指す放送局 ジャーナリスト宣言

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2007-01-04 木 18:03:44 / / /編集

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人は12時間も同じジャンルのテレビ番組を観てはならない

 そうか、これで僕の頭痛の原因が明らかになる。

 年末年始はぶっ続けで政治討論番組を視聴した。特に今回からは、2006年に始まった「日本テレビ版TVタックル」こと「太田光の私が総理になったら(以下、太田総理)」の特別番組があり、本来は「たけしの超常現象バトル」が放送されるはずの大晦日の夜には「たけしのTVタックル これを言わずに年が越せるかスペシャル(以下、タックル)」があり、極めつけには年を越して新年1月1日になった途端に始まる「朝まで生テレビ(以下、朝生)」が深夜から、文字通り朝までぶっ通しで放送される。

 VHSに録画した「太田総理」を観て、終わった直後から「タックル」を視聴、カウントダウンで僕の好きな平成の懐かしい曲(TRF、ブルーハーツ、Every Little Thingなどは大変良い。蛇足だが、浜崎あゆみの初期の曲も聞き返すと案外、抵抗はない)が流れたかと思うと、オヤジ臭い「朝生」が始まったのである。

 さて、3つの番組全てに共通して言えるのは、残念ながらその「レベルの低さ」では無かろうか。

 確かに、年末年始のこの時間に比較的「ヘヴィーな」(と言うと疑問が残るので、あくまでも「比較的」であるのだが)政治討論番組が集中したことは素直に評価に値する。国民の政治的関心の表れであると信じたい。が、やはりこれらを欧米と比較した場合にその内容の次元の低さがどうしても目に付くのだ。

 まず、如何にテーマが決まっていてもそれには沿わない。話はすぐに脱線するし、他の出演者との話は噛み合わないし、質問に答えない場合もしばしばだ。お互いがお互いに「論証責任」を負うことがない。全てが「自己主張」と「エッセイ」の域を出ず、他者に原則論をぶつけるだけで、本当に論破しようという意志がそもそも見られない。

 これらの光景は欧米の政治討論番組ではまず考えにくい。いや、そもそも日本の主要な政治討論番組を欧米のそれと同列に論ずる事自体が誤りなのかもしれない。

 「朝生」はまだよいとして、前者二つ、「太田総理」と「タックル」は完全に政治が娯楽化されていると考えた方がよい。欧米の政治討論番組は「ディベート」であり、「太田総理」「タックル」は「監督教師不在の小学生の学級会」として位置づけると非常にわかりやすい。後者に「論証責任」と「秩序」が存在しないのにも頷ける。

 いや、しかし「タックル」には有能な監督教師が存在している。紛れもなくそれはビートたけしだ。彼は語りも巧いし、ひとたび話せば生徒(=政治家)も静まり返る。話す内容も面白いし、貫禄も備わっている。それでいて、かたや世界的に高い評価を得ている映画監督で、かたや雑誌に彼の語りを文章に起こせば毒の効いた秀逸なエッセイができあがり、かたや低俗なバラエティー番組にすら出演する、もはやマルチな彼は天才としか形容のしようがない。「タックル」に於ける彼は、じゃじゃ馬の生徒(=政治家)たちの自主性を尊重した、貫禄のある教師なのだ。

 だが「太田総理」はまさに僕の言う「教師不在の小学生の学級会」であると言って全く問題は無い。本来は教師であるはずの太田は子供と一緒になって騒ぐような有様だ。

 日本でまともな政治討論番組はもう「日曜討論」ぐらいしか無いのではないかとすら思っている。「朝生」は田原をどう評価するかにもよるが、それでも欧米のそれとは見劣りする。

 大晦日の視聴率合戦に投入される番組から、完全に娯楽性を排除する方が難しいのかもしれない。

 「太田総理」と「タックル」に代表される「娯楽化された政治」討論番組は、政治的無関心に堕ちた国民の興味を惹くだけ、たったそれだけの価値しかない。「論証責任」を喪失した、「ディベート」にすらなれない「小学生の学級会」は、馬鹿な国民を議論の土台へと上らせる役割しか果たせない。それは所詮「議論のための議論」であり、それは既に議論とは到底呼ぶには値しない。あくまでも政治的無関心層に政治的関心を持たせるか、既に持っている層に少しばかりの満足感を与えるだけで、政治的「関心」よりも上の段階へは昇華のしようがないのである。

 しかし、どうだろう。これらの「娯楽化された政治」に関する番組が、無くなってしまえば。

 毎週君の楽しみにしている「太田総理」が、「タックル」が、或いは「ジェネレーションジャングル」(あれってまだやってるのか?)が、全てのそうした類の番組が排除され、それらの時間帯に「日曜討論」が放送されるとしたら。君はそれを甘受できるか?

 僕は言いたい、そんなもんできるわけねーだろヴォケ、と。

 欧米では政治はつまらないもの、というよりか大人のものとして、社会の一員として嗜まなければならない。だが、我が日本国ではこれを娯楽の側面から楽しめる素養が存在する。

 欧米人は労働を苦痛と考える。だが、我々日本人は労働をあくまで楽しむ特性があり、また趣味の部分とを共有する層が存在し、働くことに生き甲斐を感じる者も決して少なくない。

 本来楽しめないものを楽しもうとする、そういった素養が日本人に備わっていると考えれば大袈裟だろうか。

 政界の動向や政治家の発言を江戸時代に置き換えてわかりやすく風刺してしまう「タックル」が良い例だ。本来は天上の人間であるはずの政治家が、身近に話している。そしてそれを笑ってしまえる観客もいる。

 ネットでも、アニメやサブカルチャーに関するニュースサイトが政治ネタをも扱う例は頻繁にあるし、国際政治を戯画した「ニホンちゃん」の認知度は高い。

 「学級会」の「太田総理」も、笑いが中心にあるものの、太田の語りは熱が入るときには本当に彼は本気になれる。僕は彼を「子供」と前述した。これはまさに本当だと思う。彼の感性は歳をとっていない。まさに理想を語るその姿と気力は良い意味で「子供」と言って差し支えはないだろう。良くも悪くも「太田総理」には若々しさがある。

 政治を楽しめる、この素養は重要である。先ずは政治を楽しんで欲しい。全てはそこから始まる。若くあって欲しい。シニカルに現実を堅苦しく「ディベート」する前に、僕らは政治に夢を見たい。全ては理想を持ってから事を始めたい。理想を喪失した討論の着く果てに、僕らは希望を持てやしないのだ。

 別に全てが欧米のスタンダードである必要はない。「文明の衝突」に於いて、日本だけが国家単位で一つの文明圏を形成していると論じられた。「国家の品格」にも通ずるが、日本は日本らしいやり方で、国民が政治を語ればいい。風刺、戯画、アイロニーは日本人の得意分野だ。

 観ていて楽しい政治番組というのも、国民が政治を考えるための、ひとつの重要な手段である可能性を秘めている。

 ・・・って、ああ。結局また話の導入部分が膨らみすぎて肝心の番組の内容について語れなかったじゃないか。

 しばらく文章を書いていないせいか、構成力が著しく低下した気がする。

 うーん、そういえば「朝生」も楽しかったよなあ。だって北朝鮮評論家の重村君がハナクソほじってんだぜ?さすが生放送だと何でも有りだぜ。

 疑惑の総合商社と戦った、社民党の辻元清美は国会で「総理!総理!総理!総理!」と連呼して話題となったが、社民党党首の福島瑞穂は朝生で「ただし!ただし!ただし!ただし!ただし!ただし!」などと六連呼したのである。党首のクォリティーはやはり党員を凌駕する。

 挙げ句の果てには中国人までもが「朝鮮は挑戦する」などと小学生なみのギャグでウケを狙い出すのだから始末におえない。なんだ、「朝生」もやっぱり「小学生の学級会」じゃん。

 はてさて、考えれば実に12時間近くも政治討論番組を観ていたのではなかろうかと思う。いやはや、よく頑張った。感動した。

 これを機に生活リズムが完全に昼夜逆転した。僕の頭痛の原因は間違いなくそれである。嗚呼。
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